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大和田俊之『アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで』(講談社選書メチエ、2011年4月)

ブログがツイッターのまとめばかりになっている。
このところ、身体が夜更かしを許さないのである。ブログを書く時間だった夜中。
夜はパソコンに向かうな、早くベッドに入れ、という声。翌日の苦しみ。
早寝早起きに転換せねばならぬのかもしれない。
そのためにはおそらく、勉強部屋の整理整頓が必要だ。夜はごちゃごちゃの部屋に埋もれるのが良い。しかし朝は。
朝は、クリアでなければならない。朝の汚い部屋は、夜に書いたおセンチな文章を朝に読み返すのと同じくらいうんざりする。
読んだ本はけっこうある。
表題の本、おもしろかった。

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

アメリカ音楽史 ミンストレル・ショウ、ブルースからヒップホップまで (講談社選書メチエ)

ミンストレル・ショウという奇妙な大衆芸能がかつてアメリカにあった、ということは知っていた。白人が顔を黒く塗り、つまり黒人に「擬装」して歌や踊り、寸劇を繰り広げるという、19世紀半ばに成立した舞台。著者によれば、アメリカでは1820年代以降に「大衆」が顕在化し、「国民文化」が成立するのだという。
この、「擬装」という言葉がこの本のキー・ワード。
「黒人性」の否定によって仮構的に立ち上がる「白人性」。白人が「擬装」する黒人、という役割をさらに黒人それ自身が演じるという錯綜。

ミンストレル・ショウにみられるこうした〈擬装〉の重層性こそが、その後のアメリカ音楽文化におけるアイデンティティのあり方を決定づける点に留意しよう。それは、しばしば一九六〇年代のカウンター・カルチャーの音楽を語る際に言及されるアイデンティティ ― 多文化主義にもとづいて展開されるアイデンティティ・ポリティクス ― とは異なる、幾重にも擬装され、仮構された虚構の主体である。アメリカの音楽文化にみられるアイデンティティの様態をこのように理解することではじめてエルヴィス・プレスリーエミネムの存在をアメリ音楽史に正当に位置づけることができるのだ。(19ページ)

おもしろそうでしょう。
このミンストレル・ショウに見られる「擬装」というトピックをひとつの軸として、ブルース、カントリー、ティンパン・アレー、ジャズ、R&B、ロックンロール、ソウル/ファンク、パンク、ヒップホップ、そしてラテン音楽まで、年代を追って「アメリ音楽史」が語られていく。
この「擬装」、たとえば1950年代から70年代にかけて、「宇宙」をモチーフにする黒人のグループが多数登場する。サン・ラ、Pファンク、アース・ウィンド&ファイアーのアルバムジャケット、などなど。

「人種的他者」ならぬ「惑星的他者」になりすます〈擬装〉の伝統に連なることを確認しておこう。(214ページ)

さてその頂点が、1983年3月25日にはじめて披露された、マイケル・ジャクソンのパフォーマンスだ、と著者は言うのだ。

それは「月面遊歩」というフューチャリズムとミンストレル・ショウにまでさかのぼる「すり足=シャッフル」のコンビネーションであり、顔を「白くした=whitewashed」マイケルが人種的他者を〈擬装〉しながら擬似的な「宇宙空間」で黒人のステレオタイプを演じるのだ。(214ページ)

その他にも、たとえばヘルダーなどの「民衆」という本来は反近代的な概念がカントリー・ミュージックでは資本主義的論理の中で「商品化」されていく、とか、政治/文化/経済的なカテゴリーとしての「若者」はロックンロール以降にはじめて誕生した、とか、ぼくの感心領域においても重要だと思われる指摘がいくつもあった。後者はいわゆる「YA文学」を考えるときのヒントとなりそうだ。
そして、その上でオーソドックスな「アメリ音楽史」のテキストとしてきちんと使うことができる、という本なのである。