ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

『日本語から考える! ドイツ語の表現』(清野智昭・山田敏広著、白水社、2011年4月)

日本語から考える! ドイツ語の表現

日本語から考える! ドイツ語の表現

 このふた月ほど、おもにネットで、テレビで、ほんとうにたくさんの、さまざまな種類の「ことば」を読み、聞きつづけてきた。はじめの数日の声を失った状態から、嘆くことば、不安がることば、安全安心だということば、危機感を煽ることば、データと情報を整理しつつ語ることば、決めつけることば、決めつけるなということば、レッテルを貼ることば、怒声とともに発せられることば、自らを守ろうとすることば、デマを語ることば、デマを正そうとすることば、未来の危機を語ることば、未来への希望を語ることば、言ったとおりになったろということば、そんなことは言ってないということば、そして、そして、そして………。
 そのなかでぼくが気をつけていたのは、自分の聞きたいことばだけを聞き、信じることのないように、ということ。
 不安なとき、ひとはそれをやってしまう。不安なとき、不安を煽ることばを集めてしまう人がいる。不安なとき、安心を説くことばを集めてしまう人がいる。さらに、ソーシャルメディアの時代とされる今、そのように集められたことばは「拡散希望」などといったマークをつけられて、再び世界に放たれる。
 皆に隠されている何かを知っている人がいる。我々のあずかり知らぬ陰謀がある。破滅がすぐそこにある。たとえそんな内容を語ることばであっても、精神の安定にとって意外と「頼りに」なったりするのだ。
 はじめて接するような知識、情報を大量に浴びる。どうやらそこにあるのは、ほとんどが「正解」のないような問題らしい。頼りになるのは、自分がこれまでどれだけ異質な感覚、自分の持つそれとは違った論理に接してきたか、その中で自分のなかの「当然」を当然とせず、他人の強く断言することばを鵜呑みにせず、いかにこつこつと一次情報にあたり、対峙しあうことばたちを突き合わせ検討してきたか、ことばの背後にいる、それを発している人間のあり方を想像する力を養ってきたか、なのだろう。
 自信はまったくない、のだが。
 文学を読む。評論を読む。思想・哲学書を読む。科学の啓蒙書を読む。そして、母語とは異なる言語を読み、表面にある意味のさらに奥に、下に、歩み入ることを試みる。それらが今、役に立つのか? 意味はあったのだ、と信じるしかない。
 表題に挙げた、日本語との対照を通じてドイツ語の「発想」、「らしさ」を学ぼうという参考書。このような、ある種の「交通整理」は、現在飛び交い溢れていることばの中で進むべき進路を見つけるための思考訓練「にも」役立つのではないか。実用面での有用性は言わずもがな、として。
 日本語では、「東の空」と言える。でも、ドイツ語の世界には「空」を「東西南北に分ける発想がない」(56ページ)。大げさに言えば、「空/Himmel」に関するコンセンサスは、日本語話者とドイツ語話者の間である種の妥協のもとに、誤解を恐れずに言えば「政治的に」、そのつど一回的に、決めていくしかないのだ。リアルな場面でのコミュニケートとは、そういうものでしかありえない。
 震災からの復興、原子力の今後や放射能汚染の「安全な数値」の問題などだって、基本は同じこと、のはずではないかしら。ののしり攻撃することばに費やすべき時間などないんじゃないのかな。
 ほとんどこの本の内容に触れなかったけれど、勉強になる良い本。同じ日本語例文を使った、ほかの言語バージョンも出ているから、いくつかの言語のできる人なら、きっともっとおもしろくためになるのだろう。
 "Ich denke, er ist der Täter."と"Ich denke, dass er der Täter ist."は両方とも言えるけど、"Ich denke nicht,..."だとかならずdass文になる。こういうのって、たしかにそうだよな、とは思うけれど、ちゃんと理由を言えるかどうかとなると、また別問題だ。理由は88ページにあります。
 あと、64ページに誤植ひとつ発見。