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エドウィージ・ダンティカ『骨狩りのとき』(作品社、2011年1月)

骨狩りのとき

骨狩りのとき

 悲惨な状況、過酷な運命がある。そこで生きる人・生きた人、死につつあるひと・死んだ人、そのそれぞれが、全体の状況と個人史との絡み合いのなかで唯一の生を紡ぐ。
 国家も社会も個人も、つねにさまざまな選択を繰り返す。その結果は徐々にあらわになるのではなく、ある瞬間に大きな塊となって目の前に出現する、ということが往々にしてあるのだ。
 文学、小説は、独自のやり方でそれを記憶し、記録する。語り手が存在できる空間があれば、語り手はおのずと生まれてくる。
 大震災、津波原発事故という現在の状況のなかで、70年ほど前のトルヒーヨ独裁下のドミニカにおけるハイチ人大虐殺を語るこの作品を読むことは、そのまま「文学」の意味を考えることにつながるような気がする。

 ベッドで腕と脚を体に巻きつけた姿勢で寝ていると、身体の中のどことは言えず、触れることもできない場所が痛んだ。私は、もう二度とセバスチアンに会えないということを受け入れられなかった。ちょうど、たとえ何度くり返して実際に大声を出して、頭の中でもびくびくした小声で、両親を呼び出しても、母と父には二度と会えないように、セバスチアンに二度と会えないこともありうるのだと頭ではわかってはいても。両親の場合は、私が年を重ねれば重ねるほど、彼らはそれだけ私から遠のいていき、ついには、私の目に見えるのは川縁で一緒にいた最後の瞬間だけとなった。あとのイメージは、思い出も夢も願望も空想も、煮すぎたシチューの具のように全部一緒に混じり合ってしまった。セバスチアンについても、いつかは同じようになってしまうのだろうか? (255ページ)

 川、水、死者の記憶。ラストの鮮烈なイメージ。主人公にとって癒しはそれを絶望的に望みつづけるという形でしか到来しない、しかしその物語を語り読む者たちは、その一回性のなかでそれぞれの癒しの可能性を感知する。
 いま起きているこの事態も、いつか語り手を得ることができるのだろうか?