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金井美恵子『猫の一年』(文藝春秋、2011年1月)

昨日の夜はサッカーのアジアカップ勝戦で夜更かししたのだが、結局勝ったから良かったものの、零対零のまま延長戦という展開で負けていたら夜更かし的に言って翌朝非常にダメージの残る状況だったわけで、ほっとしたのだ。
アジアカップの報道で韓国選手の名前がたいてい漢字で書かれていて、しかし韓流スターの時はカタカナ書きなのにどうしてだろう、韓国の人の名前は原音に近い読み方をするようになって久しいのだし、ルビのない漢字で名前を書かれてもどう読んだらよいのかわからない、とふしぎに思っていたのだったが、ちょうど昨日読み終えた金井美恵子のエッセイ集『猫の一年』に同じようなことが書かれていて、やはりねえ、ですよねえ、と思わず激しく相づちを打ったことだった。

猫の一年

猫の一年

サッカーの話題が多い。著者はヨーロッパのサッカーに詳しいのだ。もとサッカー選手の「ヒデさん」をめぐる周囲の人びとの言動(もちろん当人も含めて)の滑稽さ、死んでしまった猫のトラーのこと、目の病気のこと、ジュリーこと沢田研二の「イモ」性について、などなど。あいかわらずの「辛口」三昧が小気味よい。

ところで国旗・国歌に関する裁判の結果が報道されている。処分を前提とする「強制」を合憲とした。僕が学校の教師たちの立場に置かれたらどうするだろう、と考えざるをえない。少なくとも、国旗国歌法が制定されたときに言われた「生活に影響はない、強要するものではない」という政府の言葉が嘘だったことは確認しておかねばならない。そのような嘘は、われわれの生を徐々に包囲し、思考力を確実にそいでいく。
原告の人びとに教条主義的な頑なさを感じる、というのはわからないでもない。しかし、国ってそういうものでしょう、なぜ敬意を払ってはいけないのか、と言う人びとのある種の素朴さ、ナイーブさに違和感と危機感を覚える。敬意やマナーは自発的なものでなければ意味がない。「国民なら自然と・・・」という論理と、従わねば処分が待つようなあり方とは、まったく相容れぬものだ。
歴史がまとわりついてしまったものは、その歴史を無しにしたくとも、無しにはならない。感情や思想との齟齬を受け入れつつ、だましだまし使っていくしかないのだし、その使いかたにこそ知恵が発揮されるべきだろう。ここでの大敵は、素朴さなのだ。領土問題だって同じことだと思う。
李忠成の決勝ゴールに興奮しつつ入った寝床の中で考えたのは、そんなことだった。