ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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『流跡』と『母子寮前』

話題の小説をふたつ、読んだ。そしてちょっと微妙なことを書こうと思う。誤解を恐れずに。以下は、感想とも言えないような、極めて個人的な、読後感である。
朝吹真理子『流跡』(新潮社、2010年10月)。堀江敏幸選考の「第20回ドゥマゴ文学賞」授賞作品。作者のデビュー作だ。

流跡

流跡

文字を縢っていたはらいやはねやとめがちりぢりになって、紙片に凝着していた文字の物質であるインクの粒子がくにゃくにゃとふるえはじめ、溶解し、紙片から浸みだしあてどなく四方へながれてゆく。細胞液や血液や河川はその命脈のある限り流れつづけてとどまることがないように、文字もまたとどまることから逃げてゆくんだろうか。綴じ目をつきやぶってそして本をすりぬけてゆく。流れてゆこうとする。はみだしてゆく。しかしどこへ ― (7ページ)

実験的な、と言っていいであろう小説、饒舌だがしかしどこか、しん、と冴えた言葉の運びのなかにストーリーが浮かび上がりかつ消えていく。主人公のおぼろげなプロフィールや行動はみてとれるものの、しだいに「書く」こと、「文字」の流れそのものが読む者にページをめくらせていく。
文章のこのリズム、この息づかい。同じだ、と思う。もし僕に小説を書く才能と野心があり、20代になにか書きつけていたとしたなら、こういうふうに言葉を連ねただろう、と読みながら思う。語彙や内容はまったき他者のものなのに、これらのことばは自分とものと同じだ、という不思議な感覚。
あらためて読み返してみれば、こんな、ページをめくるたびに才能のきらめきがぽろぽろとこぼれ落ちるような文章が僕に書けるわけがない、と承知するのだ。けれども、最初の印象は容易に消えないのでもある。こういう奇妙な感覚を覚えた小説は、はじめてだ。ではおもしろかったのか、といえば、そこは微妙なところ。今後発表されるだろう作品を読んでみたいと思うだけの、惹きつける力があった、のは、確か。さらに世評の高い「きことわ」は未読、単行本化されたら読んでみよう。
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もう一作は、小谷野敦(とん)『母子寮前』(文藝春秋、2,010年12月)。

母子寮前

母子寮前

このところ、病気で誰かが死ぬことをテーマとした小説やドキュメンタリーが読めない。パニック障害で苦しんで以来、特にそうなのだ。しかしこの本は、なぜか気になって本屋で手に取り、買ってしまい、読んでしまった。母ががんで死ぬ、「私小説」、と帯に書いてあるのに。そして、良い小説だった。
読んで、この小説の語り手は自分と同じところを多々持っている、と思った。もちろんスケールはまったく違うし、この語り手の持つ才能もバイタリティも野心もこちらは持ち合わせていない。大学の非常勤講師をしている、というくらいが唯一の共通点か。しかし、身体の奥の方でむずむずと共振するものがある。読むのは辛いが、読まざるを得ないのだ。読者にそう思わせる小説は、良い小説、と言うべきなのではないか?
ほぼ半ばのあたり、がんセンターでの治療で抗がん剤が効かず、今後の方針として医師に往診、緩和ケア、ホスピスの三つの方法を示される。まだ語り手もその母も多少の楽観があった、最後の時期にあたる。そして103ページ、関わりのある出版社の社長の通夜に語り手とその妻が行く、というあたりで、それまで淡々と語られてきた情景に奇妙なゆらぎが生じる。

その日は雨もよいの猛烈な湿度の日で、桐ヶ谷斎場で焼香をし、担当編集者に妻を紹介してから、五反田へ出て夕飯を食べるところを探したが、うまく見つからず、牛肉の店が休みだったので、豚肉の店へ入った。ところが、店員の態度がみょうにおどおどしている。ちょうどその頃、青森のほうの精肉業者が、牛肉に混ぜ物をしたとかでニュースになっており、しかもその店は、狐や猫のキャラクターを使ったメニューを用意していたから、それで変てこなことになってしまったのかもしれない。その日私は、五反田の駅から少しのところに、ソープランドの看板が見えるのを発見した。後で調べたら、本番無しのソープらしい。

牛肉? 豚肉? ソープランド? なんの話なのだろう?
その後、今後治療を受ける病院のある埼玉県の吉川の駅に降りるという描写があり、改まって15章、大学院生の頃の吉川にまつわる思い出話から、すっと留学直後の母との暮らしに話が移り、金魚の話、そして電機部品を受け取りに「工場めいたところ」へ行った「幸福な記憶」が語られる。
このあたりの、ふしぎなとりとめの無さが、ふと時空が交錯し揺らぐ感じがして、読んでいてなにかどきどきするようなのだ。そして、次の章で物語内の現在に戻ると、もうそれ以降は悲しい結末かつ二重の決別へと、再び淡々と進んでゆくのみである。ああ、うまいな、と思う。小説の語り手としての語り手の冷静さと、小説内の現実を生きる存在としての語り手の生々しい知覚とを、物語の構成の中に巧みに織り込んでいる。
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とりとめのない読後感を書きつらねたが、このような読み方も小説を読むということの楽しみではあるかな、と。