ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、2010年9月)

歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ (中公新書)

ドイツ児童文学の講義、今週はアルニム/ブレンターノ『少年の魔法の角笛』を取り上げた。啓蒙主義の教育・理性・普遍への志向と、ロマン派の芸術・幻想・個人への志向、しかし同時に「国民」なり「国民国家」なりの形成においては両者が錯綜し絡み合う形でひとつの流れを作っていく。という風に言えばだいぶ大ざっぱなのだが、全体の見通しをつけるためにはそれくらいを把握しておけばよい。
啓蒙主義的な子どもの本への批判、としての『角笛』と、「ドイツ民族」のアイデンティティを探るという文脈での『角笛』とは、そのような絡み合いの接触面として捉えるべきだろう。
そこで日本に目を向けてみれば、同じような錯綜関係が明治期以来の「唱歌」と「童謡」にも見て取れそうだ、というのが、「国民」や「国家」形成の「装置」としての演劇/劇場なり「歌」、あるいは「体育」へぼくが関心を抱いた最初のきっかけなのだ。『演劇インタラクティヴ』という論文集にぼくが書いた文章も、その延長線上にある。
この『歌う国民』も、そのテーマを扱っている。取り上げられているのは、タイトルにもあるように唱歌と校歌、県歌、そしてうたごえ運動。「国づくり」のツールとして、明治が始まってから現代まで、音楽はある重要な役割を担ってきた。
著者はそれを、「コミュニティ・ソング」という言葉で示す。唱歌や校歌を「芸術としての音楽」という見方から一度離れて、近代国家の成立期におけるコミュニティの形成に関わる文化的ツール、という大きなコンテクストのなかに置き直してみる、というのがこの本の全体的なスタンスである。
たとえば西洋の19世紀、「合唱団」が市民階級の中で組織される。ドイツでは合唱祭という催しが頻繁に開かれ、その中で「国民」のアイデンティティが醸成されていく。「学生歌」の伝統も、このころ始まる。
このような西洋の動きはヨーロッパの周囲に広がっていく。そして日本の「唱歌」も、その「グローバル・ヒストリー」の一部をなすものとして捉えるべきだ、というのだ。なるほど。
つまりは「啓蒙」なのだが、しかし単に「上から」押しつけるだけのものではなく、社会の多層に渡ってのさまざなま場面からその動きを推進する力が生まれ、偶然の要素も加わりながらひとつの「文化」が形作られていく。
そこが「歴史」を読むおもしろさだな。この本はそこをうまく語っていて、おもしろかった。