ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

はてなダイアリーから移行。元は読書メモ、今はツイッターのログ置き場。

「アサヒカメラ」2012年1月号には

「アサヒカメラ」誌ではホンマタカシがホストとなった対談が連載されているのだが(「今日の写真」)、1月号は「ドイツから見た日本写真」と題して、ケルンで写真関係の出版社・書店を運営するマルクス・シャーデン氏がゲスト。
シャーデン氏は書店員になるために3年間職業訓練校に通った、とある。専門性に関するこのようなスタンスにドイツの特質が垣間見えて面白いのだが、それはさておき。
氏はドイツの写真の特徴として、「何かの世界を作り上げていくという撮り方」があるという。その代表がデュッセルドルフのベッヒャー・シューレ(「ベッヒャー派」とでも訳すか)の作家たちであり、計画性、構成重視、コンセプト重視の作品が主流だと。
それに対してホンマタカシは、日本の写真の特徴は「あいまいさ」だという。シャーデン氏は日本の写真に関して「ダイレクトな感じ」がするというが、実際のところ、そのふたつはほぼ同じことを言っていると考えていいだろう。撮影の前に設定された枠組みというものがなく、自分の周囲の世界に直接的に反応して撮っている、ということだ。
トーマス・ルフやトーマス・シュトゥルート、アンドレアス・グルスキーと、佐内正史川内倫子の作品の相違。
記事を読んでいての思いつきだけれど、もしかしたらこういう相違は、演劇というジャンルにも当てはめることができるのでは? という気がする、のだが、どうだろう?
ホンマタカシは西洋と日本の違いを「アニミズム」と「一神教」に還元できるのではと考えているようだが、それとは異なる側面として、「アカデミズム」や「エリート」の、社会の中での位置づけという問題があるように思う。それこそ、本屋の店員になるために学校に通う必要がある社会と、「女子カメラ」的な写真を撮っていた人が「フォトグラファー」になる社会と。
そういう日本的な「地続き感」が、ドイツの写真家や、もしかしたらドイツの演劇には、ないような気がする。ちょっと考えてみたい。

2012年01月08日のツイート