ホンダヨンダメモ(はてなダイアリー版)

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子どもだって考える

最近この場がツイッターのログ置き場のようになってしまっていかん。採点の途中だが一休みしてちょっと書こう。
このあいだのドイツ児童文学史の講義、1968年を中心とした「反権威主義的転回」が子どもの本からテーマやモチーフ上のタブーをいかに取り払ったか、なんていうことを扱ったのだけど。
その時代の少し前から、ウルズラ・ヴェルフェルの初期の作品など、小さな子どもでも生きづらさや困難に直面していることを心理学的に描くようなものも出てきた、という話をしている途中で、ふと思いついて、こんな話をした。
うちの娘が小学校3年生くらいのとき、学童保育に迎えに行った帰り道などで、娘がふとまじめな顔になって言うのだ。
「あのね、思うんだけど、人ってなんで死ぬのかなあ。それ考えるとね、こわくなっちゃうの。夜とか眠れなくなっちゃうんだ。それと、あたしはなんでここにいるんだろう、なんでおとうさんとおかあさんのこどもなんだろう、なんで日本に生まれたんだろう、って。すごくふしぎ。」
妻に聞いてみると、妻にもしきりにそんなことを言っているらしかった。悩んでいるようなのだ。
もちろん、小学校低学年の子どもはみな脳天気に楽しく生きているんだろう、などと思っていたわけではないけれど、そんなに明確に「実存」的な思いを抱いているのか、とちょっと驚いた。
でもよく考えてみれば僕も小学校に入った頃から「生きるのってつらいな」と(そういうことばを使って考えていたわけではないけれど)思っていたし、妻もちょうど10歳前後に「死」についてよく考えていた、と言う。
たぶん皆さんの中にも、そういう記憶のある人がいるんじゃないかな、そういうのをすくい取って物語にしよう、ということが意識的に行われるようになったのは、少なくともドイツでは1960年代くらいかららしいんだ、児童文学的な「現代」はそのあたりから始まったと言えるね...。
まったくこの通りではないけれど、だいたいそんな話。
悩んだとき、つらいとき、行き詰まったときに、「生」にとどまるためのフックをたくさん持っていることが大事なのだろうな、と思う。
今、ブンガクはそのフックたり得ているのか...。それはまた別の機会に考えよう。採点に戻らなきゃ。
このあいだ娘にそれとなく聞いたら、前はいろいろ悩んだけど、今はそれよりもいろいろ楽しむのが大事だって思うんだ、だって。そういえば暮れに「ああ、今年は楽しかった!」って言っていたっけ。